「風に吹かれて 2004」の記事

 街は すっかりクリスマスを装って光に彩られ、流れてくるクリスマスソングを聴くと、心ときめいて、すっかりオジさんだけど、気分はドキドキ。
 我が家は仏壇があって浄土真宗ということになっているが、お正月の三社参りにはお寺と神社に行って「あれもこれも全部願いが叶いますように。その割りにお賽銭は少ないけど勘弁してください」と盛大にお願いをする。
 情け深い神様や仏様のことだから「八方美人的にあちらこちらで頼みごとしたって叶う訳がないだろう」なんてケチなことは思わないに違いない、そう思ってお祈りをする。
 そんな訳だから、クリスマスも大好きである。仏様や神様にはご遠慮いただき「メリークリスマス」といいながら大好きなケーキをぱくぱく。これだから、クリスマスはやめられない。
 クリスマスにちなんだ映画はいろいろあるけれど、私のお気に入りは1994年のアメリカ映画「34丁目の奇跡」。
 この映画はクリスマスが近づくとよくTVで放映されるが、「サンタは存在するんだ!!!」という心あたたまる映画である。
 この映画は、ニューヨークの34丁目にあるデパートで、サンタに扮して子供たちの人気者となったお爺さんが「実は、わしは本物のサンタじゃよ」と言い始めたことから起きる騒動を描いたものである。そして、「本物のサンタがいるなんて信じられない」と云う大人たちに、このサンタと称するお爺さんは「信じる心を失ったら、疑うだけの人生になってしまう」と話す。
 人は大人になると「ウン サンタはいるよ。デパートに行けば会えるよ」と、はなはだミもフタもない言い方をする。
 そりゃあ、サンタはデパートにもいるけれど、幼いころ、みんなの心の中にもいたのである。ただ、大人になって、それを忘れてしまっているだけである。幼いころ、サンタがいると信じた心を取り戻すことが出来たらと思う。それが出来なくても、この映画のように、せめてサンタはいると信じる心を持ちたいと思う。それが出来たら、人の心は、この時代、こんなにも壊れることはなかったのではないかという気がする。
 哀しく切なくてつらい出来事が多かった年だけど サンタのように、人に「優しさ」をプレゼント出来たら最高である。物があふれている時代だからこそ、高価な品物より形のない贈り物‥‥そう、あなたの優しさの方が価値のある贈り物にるという気がする。優しさという形のない贈り物、ウーン、これってタダ!!!

 5月から始まったこのコラム、読んでいただいてありがとうございます。今年、いろいろなことがあなたにも起こったとは思いますが、イヤなことはゴミ箱ポイして、云われて嬉しかったこと、心ときめいたこと、幸せ感じたことなど、心のアルバムに張って大切にしまっておいてください。
 それでは、よいお年を!!

ま、いいか。

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 もう12月。
「もういくつ寝るとお正月」と歌った幼い頃は、時がたつのが遅くってじれったい思いをしたものであるが、年をとるとアレヨアレヨとばかり時が駆け抜けて
「エーッ もう12月!!!」となってしまう。
 人生の持ち時間の大半を使い切ってしまった私などは、過ぎ去った時間より、残された時間の方が大切なのはよくわかっているけれど、
「今日がなければ明日があるさ」と、ノホホンとグウタラと一日を送り、またたくまに時を積み重ねてしまう。
 一日生きたということは、一日死に近づいたということだから、本当は
「明日のために今日がある」と、もっと、大事に一日を送らなくちゃあならないのである。
 てなエラソウなことを言っても、とかくこの世はままならぬ。好むと好まざるとにかかわらず仕事はしなくちゃならないし、今、NHKのBS放送でやっているゴジラ映画のシリーズは見なくちゃあならないし、読みかけの歌野晶牛のミステリィ「葉桜の季節に君を想うということ」がどう展開していくかも気になるし、映画「ハウルの動く城」も公開されたし、タウン誌の「安くておいしい鍋特集」など読んで、忘年会はどこに行こうかと悩まなければならないし、ホント、どうでもいいことで忙しい。有意義なことなど、これっぽちもする暇などないのである。
 だけど、まあ、アタフタと一日精一杯生きて、小さな幸せを一つでも見つけることが出来たら、それはそれでいいのではないかという気もする。
 つらく切ないことばかり多いけど、
「小さな幸せ見つけた!!!」そう思える日を少しでも持てたら‥‥と、そう思う。

Oh My God!!!

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 今年、この星のあちこちで、雨は異常に多すぎ、夏は異常に暑すぎ、台風は異常に多すぎ、おまけに日本では大地震。
 ウーン この星は早くも末期的症状を示しているに違いない。 
 私は映画大好き人間で、それもSFっぽい映画、それも宇宙が舞台の映画が大好きである。だから、宇宙人がこの星を侵略しに来る映画とか、隕石が落ちてこの星が滅びそうになる映画がくると、心ときめかし映画館に出かける。そして、この星が滅茶苦茶になるのをハラドキしながら見て、「ヤッター」と大満足して映画館を後にする訳である。
 だから、「ゴジラ」の大ファンでもある。なんたって本物そっくりのゴジラが、ドカーンバカーンと国会議事堂や東京タワーなどをぶっ壊すのを見ると
「快感!!!」と叫びたくなる。などと言うと
「お前、SMじゃないのか」なんて言われそうだが、ホント、気分がいい。
 今年見た映画で「デイ・アフタートゥモロー」というのがある。温暖化による異常気象で、この星が水浸しとなり氷河期に向かうという映画である。
 ニューヨークをはじめ北半球の大都市が水没するシーンは、SFXの技術でこれまた本物そっくり。
「スゲー!!!」を連発しながら見たものである。
 でも、これは映画だから
「スゲー!!!」ですんだのだが、なんだか今年の気候を見ていると「本物そっくり」が「本物」になるのじゃないかという気がしてならない。
 私は、SFファンだから、はるか宇宙の彼方のナンジャモンジャ星雲にチチンプイプイ星人がいると信じている。誰も『いない』と立証した人はいないのだから、『いる』に違いないのである。
 そして、この心優しいチチンプイプイ星人は、この星をバカデカ望遠鏡で見ながら
「どうもこの星には、いっぱい生物が生息しているけれど、どうもヒト科の生物はあまり賢くなさそうだ。同じ種族でありながら、殺し合いはするし自然は破壊するし、やりたい放題。それに、この星の温度を上げると滅亡するというのが分かっておりながら、ノホホンとしている。ヒト科の生物が滅びるのは自業自得だけど、それ以外の生物が可哀想だから、この貴重な星が滅亡してしまう前に、ヒト科の生物だけ排除することにしよう」などと言いながら、いそいそと空飛ぶ円盤に乗り込む準備をしているに違いないのである。
 ウーン。これは大変!!! こうなりゃ、ダテの薄着はやめて厚着をし、暖房の温度を下げてヒト科の生物ここにありと、チチンプイプイ星人を見返してやることにしよう。

落  葉

秋の日の    ヴィオロンの

ためいきの   身にしみて

ひたぶるに   うら悲し

[ヴェルレーヌ ・ 上田敏訳]

枯葉散る秋に

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 秋である。秋は、なんたって忙しい。
 食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋、芸術の秋。秋はいろいろやることが多い。
 まず食欲の秋。パクパク食べた途端、お腹の出っ張りをみてたちまち反省。食べすぎ是正のウオーキングと意気込んだものの恒例の三日坊主。スポーツだめなら読書でもとベットで本を開いた途端、睡眠薬代わりでスヤスヤ。かくなる上はコンサートと気取って行ったのはいいが、鼾をかいて顰蹙を撒き散らす始末。
 ホント、秋は忙しい。おまけに秋は、「女心と秋の空」の秋でもあり、「秋深し隣は何をする人ぞ」の秋でもあり、「天高く馬肥える秋」の秋でもある。
 だから、彼女から「ああでもないけど、こうでもない」と言われて悩み、隣の美人の奥さんはいつもダンナを置いて着飾ってどこに行くのだろうと悩み、「天高く馬肥える秋」でなく、どうして「天高くブタ肥える秋」ではいけないのかと悩まなくちゃならない。
 このように秋は悩み多き季節、そう失恋の秋でもある。
 春に恋に目覚め、夏に恋に燃え、秋に失恋する。華やかな春に失恋は似合わないし、ホットな夏は激しい恋が似合う。だから、失恋ははらはらと枯葉散る秋でなくちゃあいけない。
 俵万智さんの歌に
『八枚の花びらを持つコスモスの いつでも「きらい」で終わる占い』というのがある。
 コスモスの花びらは8枚。だから「好き」から始めれば必ず「きらい」で終わるのは分かっている。でも 何故か「好き」から始める少女の切ない心。
 一方的な恋をコスモスの花占いに託したこの句は、少女にとっては、ほのかな感傷を感じさせる失恋も、また憧れなのであろう。
 秋。秋にふさわしく、あなたも失恋してみませんか。エ? 恋をしていないのに、どうやって失恋するのって? ウーン そんなこと言われてもねえ‥‥。

 10月はハッピーウエデング。うまくいけば死ぬまで一緒。そこで、これは夫婦の一生についてのオハナシです。
『20代の結婚‥‥それは愛。愛とはすべてが美化され、美しくお互いを引きつけあう。
 30代になると子供によって夫婦は結びあわされ平和を保ち、愛を確認しあう。
 人間は愚かだから、40代になって夫婦であることを守るために努力するようになる。あらゆる意味のお互いの努力が実って、そのとき結婚は持続する。
 50代になってそろそろむずかしくなってきたカップルは、それぞれの立場で我が生まれ、それを思いやり忍耐して50代をすごし、子供たちの成長を見守っている。
 60代になるとあきらめの境地に達し、他に喜びを見つけ、個々の生き方を考えるカップルもある。
 70代になると、いい結婚をしたとお互いに感謝しあうようになるし、そうでない人は憎悪の念を持ったりする。
 また80代になるとすばらしい結婚をした人はお互い神様になり、まずい場合は男と女の化石になってしまう』ーー村田昭二「人心の時代」から
 ウーン 実感。夫婦をするって大変なコトなんですね。あなたはどのレベル?
 お互い化石にならないようにしましょうね。

夏の終わり

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 夏が終わった。オリンピックとテロと猛暑と台風に水害。この星では、イイこと少なくてワルイことあふれんばかりの夏となった。
 どうも、この星を作った神様は、地球人に
「こんなはずではなかったのに!!!」とお灸をすえているに違いない。
 そして、ニッポンも今年の夏は、アツくってあつくって暑くって、ウン、何が何でもあつーい、 夏いっぱいの夏。
 でも、冷夏とか暖冬の方が過ごしやすいなんて云う人もいるが、夏は夏らしく冬は冬らしく、四季のけじめは、はっきりしていた方がいい。
 そして、暑さを逃れて海や山に人がいっぱい。そこで、素敵に夢がかなった人もいるだろうけれど、夢が破れた人もいるにちがいない。
 でも、短歌「塔」の歌人・栗木京子さんの歌に
「観覧車 回れよ回れ 思い出は 君には一日 我には一生」というのがある。
 この歌は
「今日の一日は、あたにとってはその日かぎりの想い出かもしれないが、自分にとっては一生の想い出となるでしょう。でも、それはそれでいいんです」と言っているのである。切ない恋であるが、決して彼女は嘆いているわけではない。
 いいことばかりの人生なんてありえない。でも、この歌のようにONE WAYの恋であっても、それを哀しみとしないで心のアルバムの片隅にでも張っておけるような気持ちを持つことが出来たら、悪いことばかりの人生なんて、これもありえないのである。 
 ウン、僕はきっとそれが出来ると思うから、誰か一緒に観覧車に乗らない?

 オリンピックが終わった。
 私は根っからのスポーツ音痴である。自慢じゃないが、腕っぷしの弱いことにかけては、決して誰にも引けをとらない。子供の頃、体育の時間に懸垂というのがあったが、私は鉄棒にブラーーンとぶら下がっているだけである。1回も鉄棒から上に顔が上がったことがない。
 野球もやったことがあるが、何故かボールはいつもバットを避けて飛んくる。守ってもボールが飛んできたら鉄砲の弾のごとく見えて、本能的に身の危険を感じ逃げざるを得ない。
 長じて、大人になり動かない球なら当たるだろうとゴルフに挑戦したものの、球は地球を転がるばかりである。空を飛んでくれた試しがない。
 かくなるうえは、ゲートボールなら名人級になれるだろうと信じているが、まだ誰も誘ってくれない。残念至極である。しかし、これまでの傾向から考察すると、ゲートボールをしたら、今度は反対に球が空を飛ぶやもしれぬ。
 かかる深刻な事情を抱えているから、スポーツは見るのも得意ではない。ただ、我が家は先祖代々由緒正しいジャイアンツフアンだから、ジャイアンツが出場する野球だけは見るものの、他のスポーツ番組など見たこともない。
 だから、オリンピックなんて筋肉ムキムキマンのよその世界の出来事と思っていたが、新聞もTVもオリンピック一色である。まるで、オリンピックを見ていないと日本国民でないような気がする。かくして、私も一夜づけの「オリンピック見る!見る!!」人間となった訳であるが、いやもう、ビックリしたのなんのって
「ウーン、スゲー !!!」と唸ってしまった。
 オリンピックの選手は、力と技に秀でていればいいのかと思っていたが、そうではなかったのである。試合に勝つ前に、まず自分に勝たねばならぬ。
 私のようにフツーの人生を送くっているだけの人間でも、その中で自分に勝つということがどんなに難しいか、よく理解できる。
「マッ いいか」と、ほどほどの所で自分に妥協するということは、自分に負けたということである。こんな簡単なことはない。私の負け数など、両手両足の指を総動員して数えても足りない位である。
 だから、スポーツの世界で自分に勝つということが、どんなに過酷で厳しいものか、私の想像を絶するのである。それを乗り越えてきたからこそ
「勝って涙、負けて涙、見て涙」となるのであろう。ジャイアンツが負けて
「こんチクショウ。ホリウチのアホ!!!ーーン?、訂正、特に名を秘す人のアホ!!!」とやけくそに叫ぶのとは、エライ違いである。
 かくして、多くの人にいろいろな想いを残してオリンピックは終わった。
 ウン、今からはスポーツ見るのを得意としよう。

 8月15日はお盆。そして終戦記念日。いずれも亡くなった人を弔う日である。
 平和を願い戦争反対が声高らかに叫ばれるのも、この日である。この日、集会を開いたり街を行進して反戦のメッセージがTVから伝えられてくる。
 でも、これって声高らかに言われなっくても
「平和反対。戦争賛成」などと思っている人なんていゃあしない。
 だから、セレモニー化しパターン化たいわゆる「運動」を見たり聞いたりしても
「ホント おっしゃるとおりデス」と感服し納得するものの、それに心を動かされることは少ない。
 それより私は、吉永小百合の「原爆詩」の朗読や森山良子の「さとうきび畑」の歌を聴いたときの方が、
「ウーン 戦争って イヤだ!!!!」という思いを強くするのである。
 この二つはよく知られていることだが、私が心を動かされものが、もうひとつある。それは美空ひばりが歌った反戦歌「1本の鉛筆」であうる。
「エッ! 美空ひばりが反戦歌?」 と思われるかもしれないが、ひばりはこの歌をとっても大切にしていたという。
 私がこの歌を初めて聴いたのは、私が1992年大阪のIMPホールで開かれた「第6回消しゴムコンサート」を聴きに行った時である。このコンサートは
「この世になかったらいいなと願うものを、それぞれ手に持った意識の消しゴムでゴシゴシ消してしまおう」という趣旨で湯川れい子が主催したイベントである。
 この日は「明日からでは遅すぎる」というテーマでパネルディスカッション、次に幾つかのグループのアコースイックコンサートがあり、その中で、たしかEPOだったと思うがこの歌を歌い、それを聴いて私はホロホロと心に涙!!!してしまった。
 そしてその時、この歌は、美空ひばりが1974年第1回広島平和音楽祭で歌ったと聞いてびっくりしたものである。私は知らなかったが、以来、多くの歌手が反戦歌として歌っているそうである。
 平和音楽祭で美空ひばりが歌うために作られたこの歌は、作詞が松山善三、作曲は佐藤勝。
 私は 演歌や歌謡曲をあまり聴くほうではないし、ひばりのファンでもない。でも、その後、TVで何度か美空ひばりがこの曲を歌っているのを聞いて、最初に聴いたとき以上に、ホロホロのホロホロのホロホロと心に涙した次第である。
 この曲は、美空ひばりのアルバムの中に収録されているが、インターネットで「広島平和音楽祭」を検索すると、歌詞カードとともに、メロデーが流れるようになっている。
 この歌詞は次の通りであるが、詩だけではこの歌の良さは分からない。ひばりの声をとおすと、この歌の持つ重みが伝わってくる。戦争反対と声高らかに叫ぶ訳ではないが、戦争はイヤだという切ない彼女の訴えが心をふるわし、伝わってくるのである。
 せめてこのメロデーを聴きながら、この詩を口づさんでいただけたらと思う。

1本の鉛筆

1 
あなたに 聞いてもらいたい あなたに 読んでもらいたい
あなたに 歌ってもらいたい あなたに 信じてもらいたい
一本の鉛筆があれば     私は あなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば     戦争はいやだと 私は書く 


あなたに 愛をおくりたい   あなたに 夢をおくりたい
あなたに 春をおくりたい   あなたに 世界をおくりたい
一枚のザラ紙があれば    私は 子供が欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば    あなたを帰してと 私は書く
一本の鉛筆があれば     八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば     人間のいのちと 私は書く

 夏が来た!!! と喜ぶのは若い人達である。燃えるような夏を待ち焦がれていたあの頃はとうに過ぎ去り、夏になったばかりなのに、秋が恋しく思える年代になってしまった。
 それに 夏といえばビールで乾杯!!! ということになる訳だが、私はまるでアルコールに弱く、ビールはグラス半分が許容量。ビールなんて飲めばまるでせんじ薬。日本酒は腐った水を飲むようで匂いを嗅いだだけでムットするし、ウイスキイはピリピリ唐辛子入りの水。
 大体、ビールのTVコマーシャルを見ると
「コクがあってキレがある」なんて叫んでいるが、私にはどういう意味なのかまったく理解できない。「コクとはどういう味か。キレとはどういうことをいうのか」と酒飲み人に聞いても、はなはだ合理的な説明に欠ける。きっと、酒飲み人はコマーシャルに惑わされて、ムードで飲んでいるにちがいない。
 それでも、許容量内に飲むのであれば、こんな私でも素敵気分となるのである。周りにいる女性はすべて美人となって、私の心はピンク色に染まり、たちまち世の中バラ色に輝いてみえる。 
 しかし、許容量以上に飲むと頭の中で除夜でもないのに鐘がなり、フラれたのでもないのに胸がムカつき、食べたばかりなのに折角のご馳走を戻してしまう。ケチな私としては残念やるかたない。
 そりゃ、私としては酔っ払って、あることないこと口走り、女性にセクハラまがいのことをして、翌日
「エッツ、そんなことしたの? まったく覚えていない。ごめん、ごめん。ウヒヒヒ」と笑って誤魔化してみたいと思っているが、世の中とかくままならぬ。
 でも、あやまってすむ位ならご愛嬌である。ジョークにいわく
「君はいっさい酒を飲まないそうだが、体質的に無理なのかね」
「いいえ。初めて飲んだとき、生涯の大失敗をしてしまいまして。それ以来、外では禁酒してるんです」
「ふーん、どんなへまをやったんだね?」
「酔いが醒めたら、結婚してたんですよ」

 選挙が終わった。暑い中熱い戦いになったみたいで、ホントご苦労様である。私も投票はしたが、ただし、期日前投票である。今までは不在投票といっていたのが名前を変えたらしい。なんとなく不在投票というと、なにか「大事な投票日に不在してスミマセン」という感じがあったのが、期日前投票というと「棄権なんかしないで先に投票します。エライデショ」という感じがあってなかなかよろしい。お役所にしては上出来である。
 投票所に行くと受付の机が2つあって、お役人顔のおじさんと可愛い顔の娘さんがそれぞれ座っている。勿論、可愛い娘さんの所に行く。そこで、名前と住所、生年月日を記入したら「旅行に行かれるのですか」と、にっこり笑いながら聞かれる。
 これが、しかっめつらしくお役人顔で切り口上で聞かれると
 「フン、どこに行こうと勝手でしょ」と言うところであるが、なにしろニッコリ美人である。「そうです」と答えてしまう。何処に何の用で行くのかと、詮索しないところがよろしい。不倫旅行で温泉に行く予定の人などは、大いに助かるに違いない。
 次に「チェクしますから」と言われる。私がニセ者でないか調べるらしい。本人が本人ですと言っているのだから、なにもチェックなどしなくてよかろうと思うが、「私は絶対にウソはつきません」とウソを言う人がいる位だから、止むを得ないのであろう。
 何を聞かれるのかと、取調官を前にした被告人風の気分になって次の机に行くと、取調官風のおじさんはパソコンをパチパチ叩き、何も聞くこともなく「どうぞ」と行って投票用紙をくれた。なにも悪いことはしていないのに、何故かホット安心。たちまち被告人風気分から有権者風気分に変わり、エラそうな顔をして投票用紙を受け取り、かくして無事投票をすませる。
 これが、投票日に投票所に行くと、そう簡単にはいかぬ。町内のオエライさんが、立会人としてずらりと座って私の方をジロジロ見る。気の弱い私は、投票用紙に書いている時も後ろに視線を感じて、町内ご推薦の「宇讃 九佐位」氏に投票したか監視されているような気がしてならぬ。クーラーなどない体育館なので、汗にヒヤ汗も加わって、身も心も汗ビッショリである。それから見ると、クーラーにきいた区役所でする期日前投票は、汗などかかず爽やかにアッケラカンと投票が出来てまことに都合がいい。
  ウーン 今からは投票日には用事を作って、期日前投票に行くことにしよう。エッ、それって悪用? ア そうか訂正、投票日に用事を作るのではなく、ホント、心ならずもやむを得ない用事が出来たので、仕方なく期日前投票に行くことにしよう。これならいいでしょ!!! 

夏の予感

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 もうすぐ夏。恋人がいる人もいない人も、なにかしら、いいことありそうな気がするする季節である。
 特にラブラブ真っ盛りの人は、きっと
「ああしてこうしてああなって、まずはめでたくウヒヒヒ!!!」ーーン? これってなんとなくゲヒン、では訂正、「めでたくウフフフ!!!」と心ひそかに期待しているにちがいないのである。
 そして、街では恋が実らなかった人も、海や山に行けば、心弾み、ひよっとしてひよっとするような出来事に出逢うかもしれないのである。
 自然の中に入れば、人も自然に戻る。街では、建前社会の中で、人は身も心も装いそして競い合って、自分をさらけ出すことはない。
 しかし、自然の懐に入れば、人は裸になる。エッ そんなに簡単に水着を脱がないって? ウーン これって身体ではなくて心が裸になるって意味デスけどーー。
 だから、海や山では、心のガードが低くなり、多くの出会いが生まれてくるのである。でも、その出会いが何かを失うだけに終わらないように、心のガードは低くなっていても、相手を見る心の目線は高くしておきたいものである。
 そして、夏にチャレンジ!!! 心はずむ出会いを求めて海や山に出かけよう。
 素敵な夏の予感 していますか? 

雨に涙しても

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 6月、梅雨の真っ盛り。雨に濡れた樹木の緑が鮮やかに映えて、心も洗われるような気がする季節である。
 そして 6月はジューンブライド。しかし、ハッピイウエデイングをする人の影にかくれて、雨に涙する人もいるはずである。そう、6月は失恋の季節でもある。
 でも、よく考えてみると、恋に破れたということは恋をした証拠である。
 恋愛あこがれ症候群の人達からみると、
「なんとうらやましい。失恋してもいいから、一生に一度の恋をしてみたい」ということになるにちがいないのである。
 恋をして心の優しさを知り、恋を失って心の痛みを知る。しかし、心の痛みを知ってこそはじめて、本当の意味での心の優しさが分かるのである。恋を知り恋を失い、そして人は大人になっていくのである。
 それに優しさだけでは生きてはいけないし、痛みだけで生きていくのは悲しすぎる。だから、
「にくいあんちくしょう」と思うより、
「素敵な想い出をありがとう」と思う方が「恋の正しいエンドマークの打ち方」となるはずである。そして、それがあなたを心ゆたかな人にするにちがいないし、心ゆたかな人こそ、また夢を実現することができるのである。
「エ? なに? それなら、失恋するために恋をしようってーー」
 ウーン、そういうことではないんだけどなアーー。

 6月はジューンブライド。街のあちこちでウエデングベルがキンコンカンと鳴り響き、しあわせマーチがピッカピッカに輝いて幸せあふれる季節となる。
 恋にはそれぞれのストーリイがあって、そのハッピイエンドが結婚となる訳であるが、映画やTVではこのエンドマークで終わりをつげてしまう。しかし、人生というストーリイの第2章はこれから開くのである。
 しかし、よく考えてみると、星の数ほどいる男女の中で、
「このひと!!」という相手にめぐり合うのは至難の業である。3億円の宝クジに当たるより難しいといっていいのかもしれない。それにラブストーリイ進行中であれば《あばたもエクボ》となるが、エンドマーク後とならば《エクボもあばた》となってしまい、今「このひと!!」が将来「あんなひと!!」になりかねないのである。
 だけど、将来にわたって「このひと!!」的相手になるかどうかは、今は分からない。だから、ミステリイ作家ディック・ロクティが《眠れる犬》の中で
「おれは結婚したことがる。1度ならず3度まで。1回目は若き日の過ち。2度目は中年の好奇心のためだ。3度目はーーそう、3度目はいわば老年期の愚行で、おれは貴重な人生のうちの10年を奪われ、貴重な経験をえた」と、書いているようなことが起こるかもしれないのである。
 だけど、それが人生というものであろう。「絶対ガチガチ本命このひと!!」的相手に巡り合うなんてことは、ハレークインの世界にしかないと思えば、
「ウーンまあまあこのひと!」的相手であっても素敵と思って結婚し、人生賭けてみることである。
 そう、結婚はラブストーリイのエンドマークではなく、人生のクラン・クインなのだから。

素敵な出会いを

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 時は春。何かしら心ときめく季節。そして、また春は別れと出会いが交差する季節でもある。青春真っ只中での別れと出会いはそれぞれの心に多くの想いを刻み込み、そして、大人になっていくものであるが、出会いがあれば、必ず別れというものが訪れる。
 どんなにハッピイエンドの恋をして、ときめきのウエディングベルで結婚し、「隣の芝生と奥さんは綺麗に見える」とか「亭主は元気で留守がいい」なんてことはチラとも考えず、ラブラブな結婚生活を送ったとしても、さだまさしが「関白宣言」で
   例えばわずか1日でもいい
   俺より早く逝ってはいけない
と歌ったように、必ず別れというものはある。
 だから、別れは避けられないものだが問題は、出会いの方である。
 会った瞬間「アッツ!!!」と分かるようなハッピイな出会いは、ドラマの世界の出来事で、現実には、その出会いがどういう結果をもたらすことになるのか、少しも分からない。
 それで、何かに出会っても、それが自分にとって大切なことになるとは気がつかず見過ごしてしまうことが多いような気がする。
 だから、出会いをハッピイなものにするには、「エッツ?」と思えるような疑問符付の出会いでも、その出会いを大切にする心を持つことが大切ではないかと思われる。すると、その心が相手に伝わり、かくして「アッツ!!!」という出会いに変わるかもしれない。
 ハッピイな出会いというものは、偶然でもなく運命的なものでもない。自分で掴み取るものである。
 時は春。出会いの季節である。胸を張って春を奏でる街に出よう。そして、このホームページを見たあなた。この出会いを大切に!!!
 また、お会いしましょう。

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